さわらんとこーとか思ったんだけどなんかエキサイトして逃げるな逃げるなって人のこと煽っておいて自分のツイートは消す宣言した中の人がいらっしゃるようなのでちょっと苦言を呈してみたりする。
ちなみに名前は出さないよ。俺もチキンなので。
話の流れ的には以下の通り。
とある人が作品の脚本についてまとまりがない、他の人の脚本の方が良いと発言する。
↓
どうもその作品の監督らしき人が檄おこぷんぷん丸
↓
怒られた人、謝る
↓
監督更にヒートアップ。暴言しまくり。
↓
『ソーシャルネットワークなんだから発言には責任を持ってやってらっしゃるんですよね?!』
とまあこんな感じで、中々に痛々しい。
プリリズという単語がやり取りの中で頻出してたので、プリティーリズムの監督なのかな?
何れにせよ物作りに携わっている人間にしては耐性がないなあと。別に煽られてるわけじゃないのにね。
とりあえずこの人の問題点は二つ。
1:作品、或いはその前段階の状態のものを批評されたことに対し、相手を恫喝して謝罪と発言を強要してる。
2:そもそもツイッターというツールを理解してない。
この二つに尽きる。
1はとりあえずおいといて2から説明しとく。
ツイッターはSNSでありツールの一種だ。利用者はその利用規約に定められた範囲を逸脱しない限り自由に扱う事が出来る。誰かをフォローするのも外すのも自由だし、発言するしないも自由だ。誰かの呟きに反応しなければいけない理由はないし、誰かにそれを強要することもできない。
包丁という道具がある。
これは食材を切り分けたり捌いたりする道具なわけだが、 使い方はその一点に限らない。背を使って肉をたたいたり、刃の平や柄の部分でにんにくを潰したり、刃元を使ってこじ開けたりすることが出来る。
そしてもちろん、人を傷つけることも。
しかしこの道具を使うにも規約がある。その一つが法律だ。人は法の許す限りにおいて、この包丁を自由に扱う事が可能であり、そのルールの範疇から外れた場合には罰則が待っている。
ツイッターもまあ言ってみればそういうものだってことなのだ。
無論、言葉というのは扱いが難しい。誰も傷つけない言葉なんてないんじゃないかってぐらい、繊細な存在だ。しかしだからといって口を噤んでいてはコミュニケーションは生まれない。
だからそれぞれが妥協し合って生きているわけだ。
その点を、この監督は理解していない。
もうちょっと補足しておくと、相手の氏素性すら定かではない、個人を晒しているようで晒してないSNSで一体何の責任を追及しようと言うのか。
そして輪をかけて酷いのが前段の1である。
監督らしきその人物は発言者に掴みかからんばかりの勢いで
「非難するなら理由を言え」
「どんな作品が見たいのか教えろ」
「勘で発言するな根拠を示せ」
「逃げるな反論しろ」
「謝って済む問題じゃない」
(文章内抜粋です)
と散々に続け、挙句の果てに
「昨日からの一連のツイートはログって消しますので、保存したい方は保存しておいて下さい。必要に迫られるようなことが起これば再アップします」
お前逃げるなって散々喚いてたじゃんよ('A`)
まあ、怒りたい気持ちは解る。作品に愛情があり、スタッフに対して信頼を寄せていればこそ、こういう憤りが生まれるのもわからなくもない。
ただね、他人に強要しちゃだめだろ……。
かの不二子不二雄先生は、エスパー魔美の中でこんなことを語っておられます。
「公表された作品については見る人全部が自由に批評する権利を持つ。どんなにこきおろされても、画家にはそれを妨げることはできないんだ。それが嫌なら誰にも見せないことだ」
「でもさっきはパパ、かんかんに怒ってたじゃない」
「もちろんだ。剣鋭介に批評する権利があるなら、僕にだって怒る権利がある。あいつはけなした、僕は怒った。それでこの一件はおしまいだ」
レビューというものは、誰もが自由に出来るからこそレビューとして成り立つ。それは道具や作品に対する評価がある一点からの普遍的なものではなく、多角的に見た中で変化するものだからだ。
とある食洗機が汚れが落ちないと扱き下ろされる一方で、モデラーから別の用途で高評価を受けていたり。
ユーザビリティに富んだ素晴らしいスマートフォンと言われる一方で、自由度がないブランドだけのアイテムと扱き下ろされていたり。
それらはどちらかが的外れなのではなく、作品に対する見方、考え方が違うから生まれるのだ。
同様にアニメや漫画も同じだ。シリアス調が好きな人も居れば、ギャグこそ至高と考える人も居る。当然その人たちの評価は同じアニメでも違っている。何故なら求めているところや注目する点が違うからだ。
さてはて、この批判をした人は本当に的外れな発言をしたのだろうか。
事の発端になった彼の発言を見てみよう。
「…おれ坪田さんのシナリオでまとまりがいい奴見たことないんですが、バランスいいシナリオは見たことあるけどよっぽど井内さんの方がと思うんですが。」
断定もしておらず、『思う』で締めくくっているので、個人の評価、或いは感想の域を出ていないことが解る。
一体何が気に食わなくて噛みついたのか、皆目見当がつかない。
何がしたかったのやら……。
この監督に対しても言ったことですが、そんなに大事な作品で批判されるのが怖いなら、大事に箱に納めてしまっておけばいいんです。誰にも見せずに自分だけで楽しんだらいいんです。
それをせずに世に出したのであれば、どのような評価も甘んじて受け入れ、それに対して憤りこそすれ、批判を理由に誰かに噛みつくような真似をしてはいけないのです。
監督さんは、それに気が付いてくれますかねえ……。
ちなみに名前は出さないよ。俺もチキンなので。
話の流れ的には以下の通り。
とある人が作品の脚本についてまとまりがない、他の人の脚本の方が良いと発言する。
↓
どうもその作品の監督らしき人が檄おこぷんぷん丸
↓
怒られた人、謝る
↓
監督更にヒートアップ。暴言しまくり。
↓
『ソーシャルネットワークなんだから発言には責任を持ってやってらっしゃるんですよね?!』
とまあこんな感じで、中々に痛々しい。
プリリズという単語がやり取りの中で頻出してたので、プリティーリズムの監督なのかな?
何れにせよ物作りに携わっている人間にしては耐性がないなあと。別に煽られてるわけじゃないのにね。
とりあえずこの人の問題点は二つ。
1:作品、或いはその前段階の状態のものを批評されたことに対し、相手を恫喝して謝罪と発言を強要してる。
2:そもそもツイッターというツールを理解してない。
この二つに尽きる。
1はとりあえずおいといて2から説明しとく。
ツイッターはSNSでありツールの一種だ。利用者はその利用規約に定められた範囲を逸脱しない限り自由に扱う事が出来る。誰かをフォローするのも外すのも自由だし、発言するしないも自由だ。誰かの呟きに反応しなければいけない理由はないし、誰かにそれを強要することもできない。
包丁という道具がある。
これは食材を切り分けたり捌いたりする道具なわけだが、 使い方はその一点に限らない。背を使って肉をたたいたり、刃の平や柄の部分でにんにくを潰したり、刃元を使ってこじ開けたりすることが出来る。
そしてもちろん、人を傷つけることも。
しかしこの道具を使うにも規約がある。その一つが法律だ。人は法の許す限りにおいて、この包丁を自由に扱う事が可能であり、そのルールの範疇から外れた場合には罰則が待っている。
ツイッターもまあ言ってみればそういうものだってことなのだ。
無論、言葉というのは扱いが難しい。誰も傷つけない言葉なんてないんじゃないかってぐらい、繊細な存在だ。しかしだからといって口を噤んでいてはコミュニケーションは生まれない。
だからそれぞれが妥協し合って生きているわけだ。
その点を、この監督は理解していない。
もうちょっと補足しておくと、相手の氏素性すら定かではない、個人を晒しているようで晒してないSNSで一体何の責任を追及しようと言うのか。
そして輪をかけて酷いのが前段の1である。
監督らしきその人物は発言者に掴みかからんばかりの勢いで
「非難するなら理由を言え」
「どんな作品が見たいのか教えろ」
「勘で発言するな根拠を示せ」
「逃げるな反論しろ」
「謝って済む問題じゃない」
(文章内抜粋です)
と散々に続け、挙句の果てに
「昨日からの一連のツイートはログって消しますので、保存したい方は保存しておいて下さい。必要に迫られるようなことが起これば再アップします」
お前逃げるなって散々喚いてたじゃんよ('A`)
まあ、怒りたい気持ちは解る。作品に愛情があり、スタッフに対して信頼を寄せていればこそ、こういう憤りが生まれるのもわからなくもない。
ただね、他人に強要しちゃだめだろ……。
かの不二子不二雄先生は、エスパー魔美の中でこんなことを語っておられます。
「公表された作品については見る人全部が自由に批評する権利を持つ。どんなにこきおろされても、画家にはそれを妨げることはできないんだ。それが嫌なら誰にも見せないことだ」
「でもさっきはパパ、かんかんに怒ってたじゃない」
「もちろんだ。剣鋭介に批評する権利があるなら、僕にだって怒る権利がある。あいつはけなした、僕は怒った。それでこの一件はおしまいだ」
レビューというものは、誰もが自由に出来るからこそレビューとして成り立つ。それは道具や作品に対する評価がある一点からの普遍的なものではなく、多角的に見た中で変化するものだからだ。
とある食洗機が汚れが落ちないと扱き下ろされる一方で、モデラーから別の用途で高評価を受けていたり。
ユーザビリティに富んだ素晴らしいスマートフォンと言われる一方で、自由度がないブランドだけのアイテムと扱き下ろされていたり。
それらはどちらかが的外れなのではなく、作品に対する見方、考え方が違うから生まれるのだ。
同様にアニメや漫画も同じだ。シリアス調が好きな人も居れば、ギャグこそ至高と考える人も居る。当然その人たちの評価は同じアニメでも違っている。何故なら求めているところや注目する点が違うからだ。
さてはて、この批判をした人は本当に的外れな発言をしたのだろうか。
事の発端になった彼の発言を見てみよう。
「…おれ坪田さんのシナリオでまとまりがいい奴見たことないんですが、バランスいいシナリオは見たことあるけどよっぽど井内さんの方がと思うんですが。」
断定もしておらず、『思う』で締めくくっているので、個人の評価、或いは感想の域を出ていないことが解る。
一体何が気に食わなくて噛みついたのか、皆目見当がつかない。
何がしたかったのやら……。
この監督に対しても言ったことですが、そんなに大事な作品で批判されるのが怖いなら、大事に箱に納めてしまっておけばいいんです。誰にも見せずに自分だけで楽しんだらいいんです。
それをせずに世に出したのであれば、どのような評価も甘んじて受け入れ、それに対して憤りこそすれ、批判を理由に誰かに噛みつくような真似をしてはいけないのです。
監督さんは、それに気が付いてくれますかねえ……。